第25回英詩研究会感想
2024年9月28日、慶應大学日吉キャンパスで行われた英詩研究会に参加した。英詩研究会が近所にやってくる! 歩いていける! などと喜んでいたら、tkさんからにわかのくせに神奈川県民アピールしすぎよと怒られた(にわかだからこそアピールしてるわけですが……)。にもかかわらず寝坊して最初の1時間半ほどを聞き逃したことはひたすら不徳の致すところで全く申し訳なかった。
プログラムのメインはシンポジウム「詩と風景」で、「初期近代・16/17世紀」、「ロマン主義・19世紀」、「20世紀」という3つの時代に関して、7人の発表があった。連続して聞くことで英詩における風景の表象の変遷がぼんやりとつかめると同時に、発表者の関心に応じてさまざまな関連トピックが言及されいい意味でとっ散らかってもいる、おもしろい形式だった。
以下メモ的に、聞きながら考えたことを書き残しておきたい。前半は、何かを重ねる図としての風景がテーマになっていたように感じた。木村氏のシェイクスピアに関する発表では、『ヴェニスの商人』の海や『真夏の夜の夢』の森が、当時の観客にとって馴染みのロンドンの場所、行事、人等を透かし見せる形で描かれていることが示された。木谷氏の話にあった「過去との持続の感覚、内的時間の連続性の感覚」(cf. ワーズワースの水仙)や、石川氏が取り上げていたラスキンの「感情的虚偽」(pathetic fallacy)論で問題になっているのも、事物や風景と現在の状況や感情の重ね合わせである。大きくメタファー的な表現の素材としての風景と言ってもいいのかもしれないが、翻ってシェイクスピア的な方法と近代的な方法(病?)の違いはどう整理できるのかが気になった。発表の流れではロマン派やラスキンのいう「モダン」の新しさの方に焦点が当たっていたけれど、他方でシェイクスピアの中にロマン派の感性を刺激するものがあったというのも文学史的事実ではあり。
それから、木谷氏が引用していたCharles Rosen, The Romantic Generation のロマン主義的追憶の規定、“remembrances of those moments when future happiness still seemed possible, when hopes were not yet frustrated”は、最近考えていたことと結びついておもしろかった。これと対比される “remember past happiness in a time of grief” は古典的な悲劇の伝統に属するとされる。だからこそ “Romantic memories are often those of absence, of that which never was.” ということになるわけだが、これは、何かを失ったと嘆くことで実際には一度も手に入れたことがないものの過去における所有を捏造し、逆説的にそれを保持しようとすることだとするジジェクのメランコリー批判にも通じ、ここまではやはりロマン派的思考の圏内なのだろう。なお、ロマン主義が感情的なりなんなりと通俗化され現在との連続性が認識されていないというのはさすがに藁人形論法で、それはいまやみんなが知っていることだと思う。
最近考えていたことと結びついてと言ったのは可能性/偶然性に関することで、ロマン派におけるこの過去から見た未来の幸福は、様相的な言葉で言えば可能的なものと言えるように思われる。対してこれと20世紀との断絶を強調する場合、後の時代においては戦争等を経て偶然的なもののが迫り出し支配的になると言えるのではないか(水口氏のところで後述)。大掴みではあるが、それで色々考えやすくなることもあるのではないかと思う。
倉田氏の発表では、19世紀アメリカ詩における “wild” な風景が「国家の創生と傷」を表象するさまが、ウィリアム・カレン・ブライアントとエミリー・ディキンソンの作品を例に分析されていた。国家のアレゴリーとしての風景というこの発表のテーマは、意外にも(?)この日の発表の中でひとつだけ外れ値のようになっていた印象があり、それだけ開拓されるべき “wildness” というアメリカの風景のあり方が(ここまでで取り上げられていたイギリス詩の文脈からすると)特殊ということかと思った。
五十嵐氏が発表したエドワード・トマスの詩 “Beauty” と、水口氏が発表したアドリエンヌ・リッチの “A View of the Terrace” は、どういうわけかちょっと似ていたのが面白かった。どちらも周囲の環境からの「私」の疎外、というか「私」に対する敵意が基調になっている。しかもそれがロマン派的に想像の補完によってポジティヴなものに転じるとはならなくて、その次第を水口氏の「歪み」という言葉がうまく捉えようとしていたと感じる。この文脈においては、 “Beauty” の “Not like a pewit that returns to wail / For something it has lost” という二行、喪失を嘆く(ことによって何かをどうにかする)ことはしないというのは反ロマン主義宣言のように読め、代案は “but like a dove / That slants unswerving to its home and love. … Beauty is there.” という超ポジティヴな鳩である。他方、 “A View of the Terrace” はネガティヴなまま終わるのだが、最終連で「磁器の人々」への投擲が唐突に子どもたちに代行されるに及んで、語り手が自分自身の欲望、悪意からすらも疎外され、語り手の消去に向かうような形で収束している。 “Impervious to surprise” という「釉薬ピープル」の特徴は、彼らを「驚かす」ことができない「私たち」の自虐を含みつつ、「驚き」(偶然)によって自分の存在自体が危うくなるような事態を指し示しているように思われた(と、無理やり上の話に結びつけて納得しておく)。
古村氏の講演は、アメリカの桂冠詩人Ada LimónのYou are Hereを紹介するものだった。桂冠詩人という立場がどのようなものなのかよく分かっていないのだが、プロの現代詩人の作品のアンソロジーと市井の人々の参加(「あなたの周りの風景に応えて何か書いてください」)を組み合わせて環境破壊に対して “hard won hope” を持つという公の資金による「プロジェクト」らしく、正直、本気か……? と思ったが、まあそういう文学好きの捻くれた反応くらい詩人のほうも承知の上でやっているのだろうし、責任ある立場を引き受けて旗を振るのは立派なことだとは本当に思う。講演ではそのアンソロジーから4つの詩が取り上げられた。打ち上げでは「正しい」詩ってどうなのよというおなじみの話題も出ていたようだが、ステートメントはともかく作品を見ると、もうだめだ……という気分が独特な仕方で記述されていく、その意味で「正しくない」作品が複数紹介されていたと思う(エレジーとグリーフの対比)。むしろ気になったのは個別の分析で、将来失われることがわかっているものに向けた「予見的グリーフ」が上記のロマン主義的追憶に繋がったり、想像に留まり続ける壊滅的破壊がStevensの “nothingness” に引きつけて議論されたりといった箇所がおもしろかった一方、心を動かすという詩のユーティリティという文脈でケア倫理が取り上げられたのは例によってよくわからなかった。介護労働の賃金の話などでも思うことだが、必要なのは政治力や原理的なルールの設定のはずで、そもそも個別・具体の側にあることになっている文学の立場から倫理の効能を言ったところで、それが私たちの善意と無力の確認以上のものになるとは思えない。あるいはよき原理への志向や実現を倫理が支えるという関係が想定されているのかもしれないが、「政治と文学」の関係がそこまで単純だともやはり思えない。
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