iPhone 6と野口

 先日とある飲み会で、「スマホなんていまや体の一部も同然なのに、まだiPhone6使ってるなんてのは――自分のことだ――セルフケアの欠落みたいなもんですね」という話になった。「セルフネグレクトですね」と応じてくれた人がいた。

 中三のとき同級生だった野口のことを思い出す。彼は卓球部で、丸刈りで、肌がつねに荒れていて、賢かった。学校の勉強を熱心にやるタイプではなかったから成績は平均かそれよりちょっと悪いくらいじゃなかったかと思うのだが、賢い人だなあといつも思っていた。
 彼は僕に将棋を教えてくれた人だ。「これはいい本だ」と図書館から勝手に持ち出した教本を、「あそこにあってもどうせ誰も読まないんだから、必要とする人の手に渡った方がはるかに有意義だ」と言って贈呈してくれた。学校に将棋盤を持ち込むことはできなかったので、それならと美術のスケッチブックの厚紙で駒と盤を作り、休み時間に数手指し、授業が始まるとそのまま引き出しにしまい、という感じで対局した。そういうのはやけに精巧に作るやつだった。気に入らないクラスメートの厚紙を黙ってとって駒を新調したこともあった。20連敗だか30連敗だかした後でやっと1勝したときは嬉しかった。
 クラスには他にも卓球部の男子が2、3人いて、僕は彼らと割に仲良くしていた。そのなかの一人と特に親しくなり、野口のことは少し離れて見ている感じだった。クラスでの卓球部員のポジションは、よくあるイメージ通りのものだったと思う。私見によれば中学校の教室は、すでに性に目覚めた人たち、それを横目でチラチラ見ている人たち、いまだこの世に男と女がいることに気づいていない人たちに三分される。自分は3つ目に属しており、卓球部員の彼らも当然そうであるはずだったが、ある日、野口とマコちゃん(同じく卓球部員)がクラスの女子を10点満点で格付けする場面に居合わせて圧倒された。「目の保養」というフレーズに衝撃を受けた。
 野口はメガネをかけていて、よくそのメガネを放り投げていた。指をツルにかけてくるくる回し、遠心力にまかせて吹っ飛ばすのだ。そのせいかは知らないが、鼻あてが片方取れていた。レンズも片方割れて、まではいなかった気がするが、そうなってもおかしくないくらい気持ちよくメガネを飛ばしていた。
 最初の話とどう繋がるのかというに、僕のセルフケアの欠落の一端は、野口に遡れるのではないかと考えてみているわけである。身体の一部たるメガネを杜撰に扱うことを、メガネだってなんだって投げたければ投げればいいのだという開放的なメッセージとして受け取った(受け取ってしまった)気配がある。それでいながら、丁寧に工作したいのならすればいいし、指し将棋は超正統派の矢倉党であって構わないし、女子の品定めがしたければすればいい。
 おかしなことに、僕が野口のことをこうして考えるようになったのは、中学を出てだいぶ経ってから、この5年か10年かのことだ。そもそも自分は元来必ずしもメガネ放擲系の人間ではなかった。僕はいいなあと思った人の好みや癖がうつりやすいタイプだが、少なくとも自覚している範囲では、野口の即効性は低かった。無数の出来事がありたくさんの人と出会ったなかで、後に何がどう残るかは分からないし、不思議だ。
 中学を卒業した数ヶ月後だったか、大人数の元クラスメートで集まることがあり、そこに野口も来ていた。農業高校に進んだことを知り(なぜかそのとき初めて聞いた)、習ったことを話され、やっぱりすごいなあと理屈はわからないが感心したことを覚えている。周到な将来設計や強い意欲があってその進路を選択したようには思えなかったし、家が農家だとかいうことも多分なかった。一番仲が良かった卓球部の友人とは高校に上がった後もしばらくオンラインゲームや将棋をして遊んでいたが、野口とはそれを最後に会わなかった。誘えば断られるはずはなかったのに、なぜそうしなかったのかも不思議だ。

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